2022年5月2日(月) 西村賢太 『随筆集 一私小説書きの独語』を読む

  


無頼派作家 西村賢太氏の随筆集。中学を出て、一人暮らしを始めた氏の経歴には興味深いものがある。家賃八千円の部屋に住み始めた描写に始まり、三十キロ程の板状に冷凍されたタコやイカの塊りを、朝から晩まで延々と積み換えてゆくだけの重労働に従事した経験の描写があり、“女体を知る“ためになけなしの日雇い銭をはたいて、風俗業の女性を買淫したり、ソープランド貯金をするために家賃を滞納したりする。挙句の果てに、母や姉に多少の小遣い銭をせびるために出たはずの町田のアパートに戻ったりするのである。この破天荒な著者の道行が実に面白く描かれている。面白い随筆集を読みたい方にはとっておきの一冊である。最後にこの随筆集から興味深い箇所を引用しておくことにする。「それを思えば、昔港湾人足のアルバイトで生計を立てていた頃には、まだその有難さを充分実感できてもいたようだ。とりわけ炎天下の続く真夏の時分に、これはより切実に痛感させられた。艀から引きあげられる、一塊三十キロ程の冷凍タコは、抱え持った時点で表面はベシャベシャに溶けている。これをひたすらパレットに積み換えるだけの単純労働は、またそれだけに時間の果てしない連続性がやりきれなかった。なので、途中で挟まれる休憩時間は一種のオアシスには違いなかったが、如何せん、それは余りにも短すぎた。まず、十時に約十五分の休憩が与えられたが、すぐさま自販機に走り、缶ジュースを飲んで煙草を二本も吸えば、それでもう作業再開と云うことになってしまう。当然、寛ぎなぞ得られようはずもない。次には昼の一時間休みを迎えるが、これも日当からの天引きとなる、仕出しの箱弁を食べ終わればもうグズグズしてはいられない。埠頭の岸壁に身を平たくできるスペースを確保し、早速に横たわる。が、やはり少しでも体を休めるのが目的だから、到底寛ぎの境地とは程遠い。三時からの十五分では、最早体力も限界に近付いている。寛ぎなぞどうでもいいから、ただ、いっとき作業の手を止めたいだけの状態だった。したがってその心境に至るのは、結句終業の瞬間からと云うことになる。あの解放感は、確かに寛ぎの感覚と同種のものと思っていいかもしれない。そのあとでは、何事につけ心に余裕も取り戻せていた。煙草もうまいし、酒もうまいし、飯も大層うまかった。だが所詮はそれも、やや長めの休憩時間と云うにしか過ぎぬ。十二時間経って朝がくると、また同じ作業が始まるのである。」

角川文庫  920円+税

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